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    山邊玲音

    『バチェロレッテ・ジャパン』出演で変わった人生と

    今だからこそ出来ること

    山邊玲音。今流行りの恋リア(恋愛リアリティーショウ)ファンであればご存じの方も多いだろう。『バチェロレッテ・ジャパン』シーズン2に出演したダンサー・歌手である。

    同番組の煽り VTR では「基本モテる」と臆することもなく言ってのける合コン王。常に軽く、チャラい感じの男に見える。だが、彼のここまでの道のりは決して、平たんなものでなく、自らの行動と自信に裏付けられたものだった。

    松原大輔 / 編集・ライター

    「今、所属のアイドルを売るのはもちろん、そのキャリアが終わった後の人生。それをサポートするのも事務所として優先度が高いと思っています。だから、芸能以外の仕事もやりながら、別のスケールも考えています」

     そう語るのは山邊玲音。現在、自身で芸能や映像制作などを行う企業の CEO を務める。自身もアーティスト、ダンサーとして活動してきた。『バチェロレッテ・ジャパン』シーズン2にもチャラいキャラで出演したことで、ご存じの方も多いだろう。

     だが、山邊自身が過去、どういった活動を行い、今に至っているのかはあまり知られていない。

    音楽一家に生まれた特殊な環境

    「生まれはアメリカのロサンゼルスです。4歳までいて、帰国後も転々としていました。

    最終的には江の島の方で暮らしていました。父がバンドマンでベーシスト。母も歌に携わる仕事をしていました」

     まるで画に描いたような音楽一家だ。彼の父はベーシストとして世界的なアーティストのバックバンドを務めるほどの腕前でプロのベーシストとして活躍していた。

     だが、そんな一家に育ったせいか逆に山邊は音楽に一切興味を示さず、野球に没頭していった。甲子園に行き、プロ野球選手になる。小さい頃からそんな夢を抱いていた。ポジションはピッチャー。

    「玲音(れおん)って名前で小学生の頃からいじられていたりして、あまり友達がいなくてずっと一匹狼みたいな感じでしたね。親への反発もあったし音楽はやりたくなかった。だから野球を頑張っていました。

     しかし、人生とはそう簡単にはいかないもの。ケガで野球を諦めることとなる。

    「野球でプロに行きたかったのですがケガもあり挫折してしまいました。それで高校卒業後はちょっとやんちゃしていた時期もありました。血の気の多い 10 代でしたね」

     夢破れ非行に走る。よくある話、と言ってしまえばそれまでだが山邊もそんなルートを辿っていた。行き場を失くしたエネルギーは常に何かを欲していた。それが若さゆえにやんちゃに走るのも無理はないことだろう。

     高校卒業後は地元のクラブのバウンサー(用心棒)のようなことをやりつつ、仲間とつるんでいた。アルバイトもたくさんこなした。とにかく何かに夢中になりたかった。そんな時に出会ったのが深夜の駅前で行われていたストリートのダンスバトルだった。

    飛び込んだストリートダンスバトル

    「ダンスのことを何もわからないまま、そのバトルに勢いで飛び込んだんです。尖っていた時期だったこともあって。でも当然、ドンすべりでとんでもない空気になっちゃったんです(笑)でも、自分の中で“これだ”って思ったんです」

     偶然目にした駅前でのストリートダンスのバトルに勢いで参加したのがきっかけだった。あれよあれよという間にはまり、気が付けば深夜から明け方にかけて駅前のガラスの前でひたすらダンスの練習を繰り返す日々を過ごしていた。

     多少のアドバイスは仲間には教わるがレッスンなどではない自己流。明け方練習を終えたら数時間仮眠をとりすぐにバイトに向かう。そして、バイトが終われば夜中にまた駅前で練習。当時の平均睡眠時間は2、3時間。20歳の山邊はありあまるエネルギーをすべてダンスにぶつけていた。

    ダンスで味わった二度目の挫折

     元々野球で鍛えられた運動能力。そして奇しくも音楽一家で育ったからこそのテンポやリズムをつかむセンス。その全てが見事にはまっていた。ほどなくしてストリートダンス界ではちょっとした有名人となり、大会でも優勝を果たすなどして、大きな世界大会などにも出場した。

     ブレイキンがオリンピックの正式種目となる以前のことなので、まだそういったストリートダンスがあまり世に知られていない頃の話だ。ともすると「駅前で迷惑な連中」というレッテルすら貼られていた頃に山邊はダンスに熱中していた。

    「大会なんかにも出て成績を収めて、その頃はダンススクールの講師をやっていました。それでもよかったんですが、大きな世界大会で完敗したこともきっかけなりましたね。もちろん、飽き性なところもあったと思います」

     ストリートダンスに出会ってからひたすら練習し、次々に技をマスターしていく。

    少しおごっていたところもあったのかもしれない。国際大会で世界の強豪を相手に負け、二度目の挫折を味わう。ダンスでももう無理なのか。

    ダンス&ボーカルグループへの誘い

     そんな時、山邊に 1本の電話がかかってきた。

    「24 歳の頃でした。知り合いからダンス&ボーカルグループをやるから一緒にやらないかと誘いの電話があったんです。それで反射的に“やる”って答えていました。

    色々ツラいことが重なっていた時期ということもあったと思います」

     とにかく今の環境を変えたかった。そんな折にきた誘いの電話だった。ダンスには自信がある。断る理由もなかった。けれども、ここにきて山邊にはひとつ抜け落ちているものがあった。それはダンス&ボーカルグループが実際はどんなものかわからないということだった。

     いまでこそ、ライブアイドルやメンズのグループがライブを行うことは普通だが、当時はまだそういったことは浸透していなかった。今ですら黎明期をようやく抜けたぐらいという見方もある。山邊はそんな中に飛び込んだわけだ。

    動員ゼロでも楽しかったワケ

    「4人組でボーカルが2人。もうひとりが少しダンスをやっているという感じでした。

    初ライブはアコースティック系の場所でお客さんもちらほらって感じでしたね。でも最初は本当にゼロから組み立てる形で楽しかったですね」

     グループ名は「CLOVER×CLOVER(クローバークローバー)」、通称クロクロ。事務所所属ではなくメンバー同士によるセルフプロデュースのグループだ。練習場所の確保からライブのブッキング。振り付けはもちろん、衣装に至るまで全て自分たちの手で行ってきた。時にはストリートライブをやったりと地道な活動を続けてきた。はじめのうちは動員ゼロのライブも経験した。

    「動員ゼロもありました。でも自分で選んだ道だし楽しむしかないよねって。苦労したという記憶はないですね。なんかこれはこれで刺激になっていいよねって僕はそう感じていました」

     ストリートで培われた精神力はもちろん、一度熱中するととことんやる性格も幸いして、活動は徐々に身を結んでいくことになる。

    「活動して 2 年目の頃ですかね。メジャーレーベルの方からお誘いがあったんです。でもメンバー同士の意見が合わなくて結局、その話は流れてしまいました。正直、メンバー同士上手くいっていない時期が重なってしまったのはあったと思います」

     今も当時のメンバーとは仲良くやり取りしているが、やはり活動の中では意見が食い違い、時にギスギスとする場面もある。そしてその話からほどなくしてクロクロは解散した。

    言語化出来なかった売れるということ

    「(解散は)もう仕方ないところもあったと思います。ただ、もうこっちの山に登ったし辞めようとは思わなかったですね。だからしばらくソロで活動してその後に、2つ目のグループに誘っていただき途中加入という形で入らせていただきました」

     2つ目のグループの加入。このグループにはブッキング担当はいたがその他はセルフプロデュース。気が付けば経験者である山邊が数多くを決める立場となっていた。

    「リーダーという肩書ももらっていました。あまりきれいな形でなく脱退していくメンバーもいてファンの方から色々と言われるんです。でもオフィシャルでは当然、何も理由を言えないので、板挟みのジレンマでしたね」

     だが、ダンスに関しては敵がいなかった。幼少期から音楽に触れ、ダンスも寝る間も惜しんで練習してきた。当然ながら、なんとなく始めたグループとは比べものにならない実力を兼ね備えていた。

     惜しむべきは当時の山邊は明確な目標を持ち合わせていなかった。曰く、「売れる定義が当時は言語化できていなかった」そうだ。

    『バチェロレッテ・ジャパン』出演で変わった周囲の反応

     30 歳の頃、『バチェロレッテ・ジャパン』のオーディションに合格。タイでの収録を終え、グループのメンバーに対してこう伝えた。

    「放送されたら多分バズる。だからそれをきっかけにもっと売れよう!」

     自分一人では売れたくなかった。グループとして売れたかった。だが、その想いは上手く伝わらずにグループは解散へと向かっていった。

     放送後、山邊は個人として大きな反響を得た。SNSのフォロワーも万単位で増え、街では声をかけられるようになった。売れた途端、本当にたくさんの人が寄ってきた。

    そんな中で仲間から「一緒に起業しないか」と声をかけられる。

    「ある意味担がれるような形ではありましたけどその時、起業してよかったですね。グループでは自分は礼儀や時間を他のメンバーに対して厳しくしてきたので、嫌がられていたところはあったと思います。だから今度はその大切さを自分が後輩に伝えていこうと思っていました」

     その後、グループは解散。山邊は起業し会社代表となり、今、アイドルグループのプロデュースに取り組んでいる。

    今、自分が出来ること

     冒頭の話のように彼が見ているのはアイドルだけではない。プロデュースする人そのものの人生だ。だから山邊の会社は芸能だけでなく、様々な事業に取り組み、芸能活動後の人生も見つめて活動している。

     果たして山邊自身は芸能活動に未練はなかったのであろうか。『バチェロレッテ・ジャパン』出演後であればタレントや俳優活動などを続けることも出来たはずだ。

    「全くなかったですね。それに活動を家族にも言えていなかったんです。反抗期があり家を出てダンスをして活動に入っていたので。それで、『バチェロレッテ・ジャパン』をきっかけに父親にはじめて“今、こういうことしてる”と伝えたんですよ。そしたら凄く喜んでくれて。その父の顔を見たら、プレイヤーとして前進するのは一旦いいかなと思ったんです」

     家族への告白。それを機に区切りがついたという。そして気持ちは完全に裏方へと切り替わった。「アイドル上がりのやつが何ができる」と自分自身に問い詰めた。グループの解散から 1 週間後に起業。そして、翌週には営業の電話を 1 日 200 件はかけていた。

    「僕の中で活動してきた 10 年間は胸を張れるものだと思ったんです。そして、起業して最初の 1 年間は芸能活動しないと決めていました。まずきちんとビジネスの現場で頑張ろうと。それで起業 1 年目の終わりにグループをデビューさせたんです」

     今、山邊が熱中しているのは自身の手掛けるアイドルグループに会社の成長だ。裏方としての人生は長い。今度は飽きずとも家族を含め周囲の皆がきっと支えてくれるだろう。

    (C)LIVE ARTIST PRESS

    (写真提供)株式会社INSPIDA

    (インタビュー写真)編集部